映画『蜜蜂と遠雷』を見ました。
映像と音楽が美しいだけでなく、詩的で美しい言葉が続き、 コンクール映画によくある蹴落とし合いなんてもの無くて ただただ美しく楽しめる作品でした。
Amazonプライムで見れるので、是非ご覧ください。
さて、ここからネタバレとなります。 観終わってモヤモヤしたところがあれば、ご覧ください。
タイトルの意味とは
蜂蜜と遠雷。 解釈は2通りある。
①試練と報酬
ホフマンからの言葉の通り、 才能というギフトを与えられたジン・カザマの存在がギフト。 この場合、新しい才能をどう扱うか、それが試練であり遠雷である。 ジン・カザマに影響され、余裕の表情だったマサルは焦る。 エイデン・アヤは音楽の喜びを取り戻す。 その結果がラストシーンであり表彰結果にでた。 誰も不幸にならず、ギフトを得て帰ったことになる。
②自然の美しさ
蜜蜂が日本文学に登場したのは日本書紀が初めてだそう。 蜜蜂の羽音が雷鳴のようにうるさいという描写だ。 映画では雷鳴を「世界が鳴っている」と称している。 つまり蜜蜂も雷鳴も二項対立ではなく同一と捉えている。
1つ目の解釈の次に2つ目の解釈ができるのは面白い。 試練と報酬であるが、それ以前にどちらも美しいとなる。 この世界をどう捉えるか、問われているような気がした。
差し込まれる馬は何か
冒頭に馬のシーンが差し込まれた。 正直言うとハズレ映画だったかなとガッカリした。 明らかに加工しましたよと申すばかりの馬の映像に雨を重ねている。
しかし、ラストで意味が変わった。 それはアヤが音楽の世界を取り戻すシーン。 ジン・カザマの演奏と雨音を重ね、 母のために音楽をしていた少女が、 母を失い、目的を失い、トラウマに前を塞がれていた天才が、 世界たる音楽を楽しみ、真に弾けるようになった。 そのシーン。
雨は音楽の祝福であり、アヤを祝福するメタファー。 黒い馬はアヤ自身のイメージであり、雨音のメタファー。 力強いアヤ自身の才能を表していた。 アヤは最後に黒く美しい服を纏う。
そしてまた、拍手が雨となり、文字通り世界から祝福された。
映画のメッセージとは
描かれなかったものがある。ジンと出会わなかった人々である。 また、明石もその一人。 ギフトの存在に気付ける人、気付けぬ人、気付いても力及ばぬ人がいる。
ジン・カザマという特異たるギフトは分かりやすいけれど、本質はそこじゃなくて、世界が音楽に溢れているという気付きが一番のギフトだった。 ジン・カザマは、蜜蜂であって、ハチミツのありかを知っている人物だったのだ。
いつだってギフトは近くにある。 気付けるかどうか。 気付けるきっかけを掴めるか。 気付いた時に力が及ぶかどうか。
映画そのものが遠雷であり、試されているのは観ている僕らだった。
そして、人が障壁を乗り越える姿は美しく、祝福されるということを伝えてくれた。